◎楽日(rakubi)
4月は今日で終わりますね~。今年の3分の1を消化しちゃいます。
あー、いつもながらに光陰矢のごとし。
やってることは遅々として牛歩のごとし。
宿題だけが増えて行くようにも思えます。
楽日(らくび):《興行の最後の日》the last day of a public performance.
千秋楽(せんしゅうらく)
いつも通りがかる小さな竹やぶで、もう誰も採らなくなったでっかい筍たちが、すくすくと伸びております。
写真はそのうちの1本。
シャキーンッ!・・・という具合に生えてます(笑)。
いったい、どのくらいまで成長したら筍(タケノコ)という呼び名から開放されるのでしょうか?
◎岩瀬吉兵衛(1746-1822)という人
縮緬や、お召し、縮みなど、シボを出す織物に使われるヨコ糸には、撚りをかけた撚糸が使われます。この撚糸をつくる道具は、はじめは紡車を使って1本ずつ行っていました。この紡車を改良して、水力を利用し一度に大量の糸を撚ることができる水力八丁車を完成。孫の笠原吉郎(1810-1878)が、撚糸の長さを測定する回転時計を取り付け、八丁撚糸機は完成をみます。
岩瀬吉兵衛は、下総国結城郡中村(現・茨城県結城市)の農家に生まれ、手先の器用さを生かすため、1778年(安永7年)33歳で桐生の車大工・峰岸勝右衛門に弟子入りします。車大工というのは、水車を作る職人さんを指すそうですが、峰岸さんは紡車を専業としていたそうです。
峰岸さんの下で修行をするうちに、吉兵衛は紡車の改良を考えるようになり、独立してから京都の撚糸機を視察に行くなど研究を重ねたのです。
結城紬には平織と縮織があり、縮織が導入されたのは、ある業者が佐野縮(栃木県佐野市)を見たことがきっかけとなって、明治時代(1868-1912)末ごろには織られるようになったとのこと。現在、佐野縮の生産は無いと思いますが(現物の反物や着物があったら見てみたいですねえ)、結城縮は昭和(1926-1989)初期~中期にかけ、最盛期には結城紬全体の86.1%(1962年)を占めるほどに盛んに生産されました。
このような背景から、平織をいわば守る形で、縮は歴史が浅いということから除外され、結城紬の生産技法は、1956年(昭和31年)国の重要無形文化財に指定されます。文化財に指定されると、小売価格にも反映されて、値段が高くなってしまいます。
一方の結城縮ですが、昭和50年(1975)には、結城紬全生産反数のわずか1%になってしまいます。でも、私は結城縮の風合いや着心地が好きなんですよね。
平成20年度の本場結城紬検査反数に占める縮織の割合は5%強で、その内訳は地機織縮が74.7%、高機が25.3%でした。とはいっても、1962年の全生産反数に比べると、平成20年度はその10分の1なのですけど。需要が反映されているのでしょうね。
とにもかくにも、結城縮ブームも支えた八丁撚糸機を改良した人が、結城地方出身の人だったというのが、新しい発見だったのでした。その発見のきっかけとなったのは、絹の里の解説ボランティアさんから聞いた話(その時は、八丁撚糸機の八丁とは、という話題)だったのでした(笑)。
◎今日の植物図鑑+α
栃木県中央公園だけに
フェンスの装飾は栃の葉でした。
タケノコ三兄弟